日本各地で個展を開催している星先こずえさん
2歳の時に自閉症と診断された。
洋画家である城戸佐和子に師事し、「切り絵作家」として活動を始めた。
こずえさんの作品は、クレヨンと絵の具でカラフルに彩色した
自作の和紙を使用して、障害の壁を超越した創造力豊かな世界を
魅力的に表現しているのが、特徴です。
最近では、素材として古布も使用し今までにないインパクトが
感じられる作品になっています。
このような作品を作れるようになるまで、こずえさんに寄り添った
母薫さんが記録した奇跡の成長記録(切なる願い)をご紹介します。
指先の力を付けたい一心で、なんでもいいから描かせる
恵子の絵を見て、「絵を習っておられるのですか?」
と聞かれることが、よくあった。
高校2年生まで、絵の先生に師事したことは全くない。
恵子には指先の力がないので、服のボタンをはめることもできない。
私は、なんでもいいから、指を使うことをしてもらいたかった。
百円くらいのらくがき用のスケッチブックは、買い物の度に購入した。
その他、色鉛筆、クレヨン、折り紙、工作のための紙コップ、ストロー、割りばしなどは
使いたいだけ使わせた。
ぐちゃぐちゃ描きさえしなかった恵子を座らせて、
1本の線を引かせることから始めた。
筆圧がなく、しっかりした線も引けなかったが毎日毎日、少しずつ少しずつ
描く量を増やしていった。
恵子は、「水塗り絵」が大好きになった。
水で濡らした筆で塗ると、色がつくというもの。
でも、描かれた線にそって、上手に塗らないと色がおかしくなってしまうから
恵子には難しい。
それでも毎日続けていると、友達よりも上手にできるようになった。
字を書くのは、友達の方がずっとうまいのに。
恵子たち障害児は、人の何十倍も回数を重ねないことには人並にはなれない。
しかし、続けると恵子でも上手くなる、ということを感じさせてくれた出来事だった。
「続ける」というのは、時々するということではない。
1年、365日する。それを何年もする、ということ。
それに、2歳上の長女が良く絵を描き、工作が好きだったことが
妹に良い影響を与えた。
小学3年生からは、4コマ漫画に凝り始めた。
毎朝、毎夕、描いていた。
どこかの作品募集に、自分から描いた漫画を送ってくれと頼まれた、
とても人に見せられるような作品ではない。
でも、私は喜んで送ってあげた。
「応募するような作品ではないことは、わかっていますが
自閉症の娘がここまで描けるようになったのは、凄いことなので
本人の希望でおくらせてもらいます。」と書き添えて。
中学生になり、「図書係になって、図書新聞を出すことが夢だった。」
という恵子は、図書新聞に4コマ漫画を載せていた。
描き方も、内容もウマイ!」
恵子は、私が「足芸」と呼んでいるものも続けた。
その名の通り、足の指にクレヨンを挟んで描くというもので
これも続けていると味が出てきた。
小学5年生からは、色紙に描くということにも興味を持ち、
中学生から高校生にかけては、毎月模造紙に「今月の絵」を描いてもらい、飾った。
恵子には絵の上手な子になって欲しい、と思ったことはない。
ただ人並みに筆圧がつき、人並に指を動かせるようになって欲しい、
と願っただけだった。
そのため、まずは家じゅうに道具と材料を置き
好きな時にいつでも絵を描いたり、工作を作ったりできるようにした。
そして私は、ただただ褒めた。恵子の絵を見る度に、褒め続けた。
恵子が描いた、というだけで褒める価値は、十分だった。
恵子からは、「私、忙しいから、褒めるのは後にしてね。」と言われた。
洋服のボタンさえはめることのできない、指の力を強くしたい一心で
クレヨンで描く練習を始め、毎日毎日続けることで
漫画が描けるようになり、やがて今のちぎり作家への土台となったのですね。
まとめ
人並の筆圧や指が動かせることだけを願って続けた絵を描く作業でも
毎日毎日続けるということは簡単なことではありません。
障害児は、健常児が学習する回数よりもはるかに多い回数の
練習をすれば、いつかはできるようになります。
でも、どれぐらい繰り返せばいいのか、いつまで毎日続ければ良いのかは
わかりません。まるで出口のないトンネルのようです。
僅かな成長に喜びながら、褒めてあげることが
根気よく続けるポイントかもしれませんね。
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