日本各地で個展を開催している星先こずえさん
2歳の時に自閉症と診断された。
洋画家である城戸佐和子に師事し、「切り絵作家」として活動を始めた。
こずえさんの作品は、クレヨンと絵の具でカラフルに彩色した
自作の和紙を使用して、障害の壁を超越した創造力豊かな世界を
魅力的に表現しているのが、特徴です。
最近では、素材として古布も使用し今までにないインパクトが
感じられる作品になっています。
このような作品を作れるようになるまで、こずえさんに寄り添った
母薫さんが記録した奇跡の成長記録(見えにくくなった障害)をご紹介します。
先生と喧嘩する
恵子の高校時代、私にとっての最大の思い出は、「けんか」
しかも、生徒とではなく、先生とである。
まず恵子は、こともあろうに校長先生に説教をたれた。
高校1年生の時の校長先生は、気に入っていたようだが、
2年生になって、校長先生が変わられたのだ。
1学期の終業式の日に、担任の先生から電話があった。
終業式が終わるやいなや、恵子は体育館から出る校長先生を待ち伏せしてガミガミと怒ったらしい。
中身がない形式ばった話し方だと忠告し、
「あなたは、この高校の校風に合わない。」と断言した。
私は、電話口で頭を下げながら、その場を想像してニヤニヤしてしまう。
恵子に理解があるその先生には、正直に話させてもらった。
「終業式が終わるまで待ったということは、彼女なりに判断ができたということです。
それに、人に文句を言うということは、自分の考えを論理的にまとめないと
できないことで、恵子にとって凄いことなのです。」
それでも、たいへん申し訳ないことなので、さっそく高校まで出向いた。
気の毒な校長先生は、不在だったので、教頭先生にお詫びする。
教頭先生は、「話し方が荒いし、初めはびっくりしました。
でもよく聞いていると、自分なりの考えを持っていると感じましたよ。」と言ってくださった。
私は、「そうでしょうとも。」と言いたいのを我慢して、
「そう言ってくださると助かります。」と頭をさげた。
問題は、3年生になってからの、数学の先生との衝突だった。
それまでの数学の先生は、問題の解答を黒板に丁寧に書かれ、恵子には最適だった。
ところが、3年生で受け持たれた先生は、よく説明さあれる分、黒板にはあまり書かれないので
恵子にとって最悪の先生となる。
週に4日も数学の授業があるのかと思うと、月曜日から憂鬱になっていた恵子だった。
(恵子が、憂鬱になるなんて!)
いきさつは省くが、その2人が職員室で大げんかとなった。
怒った先生は、「お前には、試験を受けさせない!」と怒鳴り
恵子も「受けないと負けたことになるから、私は、受ける!」とやりかえした。
恵子には目上も目下もないから、負けてない。
担任の先生は、2人の関係を大変心配し、
「恵子さんは、障害がありまして・・・・」と説明するが若い数学の先生は、
「自分には、彼女に障害があるとは感じられない。」と耳を貸してくれなかった。
恵子は、窮地に立たされたわけだが、「学校の先生から障害を意識されない。」って凄いことだ。
私は、心配と満足が交錯する。
恵子は、「負けない。」ために、数学の勉強を続けた。
そして、「怒りの持続」ということができない恵子は、
わからない時は、質問をしに職員室へ向かった。
だぶん、一番嫌いなのに、一番質問に行く生徒だったに違いない。
ある意味、学生生活最大の危機だったけれど、3学期に担任の先生から報告があった。
「あの相性の合わない2人が、最近では仲良く問題を解いているんですよ。
信じられません。見ていて嬉しいです。」
不器用だけど、真面目な恵子の勝利だった。
恵子さんにとって、目上も目下もないから、たとえ相手が目上の先生でも
関係なく文句を言ってしまう。自分の意見が言えること自体、障害のある恵子さんにとっては
凄いことだが、その状況が判断できないのは、障害があると判断するのか
勇気があるととるのかは、難しい判断になると思う。
先生が、障害があると認めなかったのは障害児としての症状として認識しなかったからだろう。
それが、薫さんにとって、先生との喧嘩はよくないことだが健常児として見てもらえたことが
嬉しかったのでしょう。
まとめ
恵子さんが自閉症とわかってから、幼稚園から中学校まで、症状が明らかにわかり
周りが理解して対応していたのが、高校に入り、自分の意見を言える状態にまで成長し
数学の先生には、理解してもらえなかったのですね。
でも「怒りの持続」ができない恵子さん、そのことがきっと大人対応に繋がってのでしょう。
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自閉症と2歳で診断された切り絵作家星先こずえさん・いい子でも油断大敵(長女の幼児期~小学校)
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